2005/12/12

占いを気にして

流行に流されているわけではないが、近年、過敏に反応してしまうことがある。
そう、「占い」である。

雑誌、新聞、テレビとこの世の中は占いだらけの時代である。
ネット等の占いサイトの数の多さには驚愕することも多く、これだけの占いがあるんだから需要と供給、人々の関心がいかに占いに向いているかということは事実として受け止めつつも、運命なんて信じない!!と10代の頃から突っ張って無頓着であった。まあ、マイウェイなので、自己過信が過ぎていたという逆説もあったりするが、どうしてこうも変わってしまうものかと自分でも呆れるほどである。

実は、もともと亡き祖父は占い師で、占いという存在がとても近いものであった。
祖父母の家に遊びに行くと、占いをする道具があり、触ったり遊んだりするとよく怒られたものだ。昔の人には珍しく身長が180センチほどある上に厳格な祖父だったので、怖かったイメージもあるが、孫娘の私には優しかった。熊本のテレビ局で、占い番組のレギュラーだったりしたらしい。占いのお客さんも我が家にいらしていた記憶もある。小学生の頃に我が家にあった「占い」と書いた看板を男の子に冷やかされたこともある。祖父が占い師という背景が占いという存在の重度を弱めていたのかもしれない。反骨精神なのか自立心なのか、単なる自己過信なのか。
そんな祖父を父に持つ私の父(占い師ではない)が命名した「匡未」は画数などにこだわってつけてくれた私の宝である。まっすぐ未来を匡して(正して)生きていけるようにという意味が込められている。私は自分の名前が大好きで、この名前のおかげで私はいつも未来を見据えて生きているように思う。
そう、これが、占いに過敏に反応してしまう理由なのである。

押し迫ってきたこの時分、来年のこと、未来のことに思いは膨らむ。
雑誌やら本やら占いのページも細かく目を通している。
頼っているわけではなく、どうなのか知っておくことは大事だと思うのである。
その中には「受け入れるということ」の深い深い意味がある。

もうすぐ、祖父の命日がやってくる。
そして、2006年もやってくる。

2005/11/28

夕闇を駆け抜けろ

早寝、早起き生活が定着しつつある。
2歳の頃から遅寝、遅起きが得意だった私としては、信じられない革命的なことなのである。
まあ、早起きと言っても朝8時くらいなので、そんなに早くはないのだが、
密度の濃い光をどばーと浴びて、一気に体を叩き起こす。
朝は夜に比べると感情が浄化されているようで、とても澄んだ気持ちが自然と入ってくる。
澄んだ心の状態からは何かしら新しいものさえも芽生えてしまう。
だから決断が早い。
音楽も何も迷わない。
心のままに生まれるのだ。
夕闇の音楽を朝に作ることさえできるのだ。



これまでの曲作りは夕方から始めることが断然多かった。
午後から夕方にかけて、そして深夜に及ぶのだ。
深夜にかかってしまうと大変なことになって、出口はだんだん遠のいていく。
結局「あー、もう朝だ」なんてことの頻度は数え切れない程で、まとまらないまま、また次の朝を迎えてしまうのだ。
夜の魔法は恐ろしい。
多分、私の表現欲は夕闇からものすごくたくさんの情報を得ているのだと思う。
夕闇の持つ空虚と光の包容の混ざり合う接点に表現のアイデアをみつけてしまうのだと思う。
それほど、夕闇は美しいのだ。
四季を通して私は冬至前の夕闇がとても好きだ。
日が暮れて、辺りが暗くなり始めるこの瞬間がとても好きだ。
ドラマさえも感じる。
ここ数年、夏が長かったり冬の到来が遅かったり、季節感が湧かない四季を過ごしているが、
太陽のリズムは変わらない。
夏はいつまでも明るくて、冬は夜が長い。





夕闇を絞って
夕闇を吸い込んで
夕闇をひねって
夕闇を通り過ぎる



夕闇の向こうには
夕闇の向こうには



夕闇を駆け抜ける

2005/10/15

ヨガ・ヨーガ

前号「夏の終わりの過ごし方」で何か始めてみようかなと思い立ち、本当に始めてしまったのである。
今や大流行のヨガ。



実はものすごく肩こり症で、しかも体が硬い。笑っちゃうくらい硬い。もちろん前屈姿勢では予想を裏切らないプラスっぷりだし、足を伸ばして座っても自分の親指に手は届かないし、よく躓く。
運動と言えば歩くか自転車に乗るかくらいだし、これではーいかん!と叱咤し常々運動をせねばいかん!と思っていても、なかなか実行に移せないのが情けないところだ。でも、以前から興味はあって、「ここがいいよー」と知人に体操教室などを紹介してもらってはいたのだが、教室に伺える時間がまちまちになってしまうことが多いし、これじゃあ、月謝も無駄になっちゃう、ダラシナイ人だと思われて先生に見捨てられるのも悲しいので、本で自分で始めることにした。



まず、本を選ぶ。
選びきれないほどの本量から初級向きで、なおかつお手ごろな値段のものを吟味する。エクササイズ系の本ってこんなにあるのねーと、女性がいかに自分の体に対して気を配っているのかということがよく分かる。
帰宅後、熟読を繰り返し、まずやってみる。
ヨガって足をくねくねさせたりするイメージがあったのだが、ストレッチみたいなポーズもヨガらしく、無知な私にあきれつつ足を伸ばしたり、曲げたり、体を背ったりする。写真の女性があまりにもすましているので、簡単に考えていたら、大変なことに!!ガチガチでまともにポーズも決まらない。
まあ、最初はこんなものよね、と自分に言い聞かせ、少しずつ毎日続ける。
私って飽きっぽいらしく、今まで続けてこれたものと言えば音楽くらいなのだが興味を持つと深い付き合いになる。一週間たつと届かなかった親指に手が届くようになる。嬉しくてまた続けてしまう。しかも、体調もいいのである。すごいね、ヨガ。流行るはずだよね。確かに昨今のエクササイズブームで、うちの母だって体操教室に通ってるし、友人も何人かヨガを始めたみたい。きっと効果が現れてきて、声が声を呼ぶのだろう。先日の東京にも、韓国にもお供してくれた、私のヨガ教則本。
そろそろ一ヶ月になるけど、まだまだヨガ熱は続きそうである。



2005/09/07

夏の終わりの過ごし方

蝉時雨ももう聞こえなくなってきた。水道水も冷たくなってきた。朝晩はずいぶん過ごしやすくなってきた。夏の終わりになると私は決まって珈琲が飲みたくなる。
以前、この日常の煙でも書いたことがあったと思うが、夏の終わりから秋にかけて私はどうしても珈琲が飲みたくなる。お酒が飲めないので、珈琲やお茶系は割りと贅沢をしていて年中楽しんでいるのだが、秋は特に酸味の効いた苦い珈琲を飲みたくなる。午前のまだ涼しいうちに飲む珈琲は格別においしいものだ。珈琲豆の匂いに誘われてお湯を注ぐあの瞬間がたまらない。

今年の夏は長年の夢でもあった歯科矯正を始めたこともあり、いつもと何かが違っていた。まあ、だいたい毎年何らかの変化や違いがあって楽しかったりするのだが、まだ歯が動く途中段階ということもあり、変なかみ合わせの噛めないストレスから胃腸を痛めてしまい、珈琲は禁飲していたのだが、やっぱりやってきたこの季節。珈琲が飲みたい!!!


体と相談しつつ、ちびちび飲むくらいしかできないのは逆に腹立たしいので、今年はちょっと違う夏の終わりの過ごし方を考えてみた。
夫にダメだしされながら絵筆を握るとか、今や大流行のヨガを始めてみるとか、プラネタリウムに通いまくるとか、兼ねてからやりたかったお習字を始めるとか料理本を買いまくるとか、カメラを片手に旅に出るとか、由布院の森に乗ってみるとか。髪型を変えるとか。とか。とか。せっかくならば今までしていなかったことをして過ごしたい!!!と考えてはみるものの、珈琲には敵わない。

夏の終わりの過ごし方。あなたならどうしますか?

2005/08/11

HANABI

熊本の夏は毎年「江津湖」という湖の畔で夏の花火大会が行われてきた。そんなに大きくはない湖だが、水面に浮かぶ花火の姿は美しくて、まるでふたつの花火を同時にみているかのような感覚にさえなってくる。その姿を人目見ようと熊本中からたくさんの人が集まってくる。10月には日本一を決める花火師たちの競技花火大会が熊本の八代というところで開催されているし、あちらこちらでもっと大きな夏の花火が上がったりしているようだが私にとっての花火大会はやはり江津湖の花火大会なのである。



20歳くらいの頃、福岡の百道という海岸で毎年行われている花火大会に友人8人くらいで見物に行ったことがある。地下鉄は増便されるほど満員電車。しかも、近くの駅についたら車両に乗っている人全員が降りるんだから驚いてしまった。まるで脱走でもするかのように、皆同じ方向にぞろぞろと何百人が歩いていく。田舎モノの私にとっては不思議な光景だった。始まった花火はそれはそれは粋で、派手で、かわいくて、素晴らしくて江津湖の花火とは大違いだとひどくショックを受けたことを覚えている。花火は近くであの「ドーン」という爆音を心臓に感じながら見るのが一番感動が大きいように思う。立派な花火があると、皆の歓声と拍手が鳴り響く。その感動の空気にまた感動する。あー。花火師になりたかった。



今年の熊本の花火は江津湖ではなく、熊本城での打ち上げだった。
我が家は熊本城まで割と近いので、20時を過ぎると雷のような激しい音の連発。うずうずしてくる。みたい。みたい。とうとう、自転車に乗って出かけてしまった。ビルが立ち並ぶ熊本の一番中心部にお城があるので、よく見えるポイントには人だかりができていた。だから結構見えない。お城まで行くには少し準備不足。花火の高頭部が見える橋の上で妥協して見ていた。少ししか見えないけど、私の周りにも人がたくさん集まってきた。2000発だからすぐに終わってしまったけれど、カラフルが熊本の町を飛び散った。



実家で手持花火を夫とふたりでしたけれど、似たような種類ばかり入っているものを選んでしまったので、あっけなく終わってしまった。花火は一瞬の美しさに賭ける。一秒も捨てないで賭ける。



2005/02/14

情報の雨

最近、近所に大型書店が開店した。かなりの敷地で品揃えも豊富。普通の大型書店では扱わないだろうコアな書物なども手にすることができる。本が好きな私としてはこのうえない喜びで、割と頻繁に利用している。私は情報収集が好きだったりする。新聞やネットでニュースを読むことが多いし、本や雑誌を読むことだって一種の情報だ。便利なものにもすぐに飛びつく面倒くさがりなので、雑誌の年間購読をしてみたり、通販などの利用も過多で、これも情報から得るものだ。街を歩けば看板なども気にしたりしなかったり。
情報は宇宙のように際限のないものだなとついさっきふと思ったのである。



情報には良質なものと、悪質なものの2種類がある。
良質な情報の利便性は言うまでもないが、悪質な情報には日々振り回されているように思う。毒牙を持った情報は私を(わたしたちを)ひどく醜いものに変えていくような感じがする。情報とは鬼の仮面のようだ。
情報の雨をたくさん浴びていると自分の中の情報がどんどんどん流れていって体に蓄積されたものさえ残らないのではないか?と時々不安に思ってしまうこともある。情報過多の今の時代に情報と自分との距離をどうやって測るかということを実は凄く気にして生きているように思う。
情報と自分との距離。



人として生きていく理想みたいなものがあり、
それに近づきたいと思い頑張っている自分と、好奇心のようなものに突き動かされ、情報の雨を浴びる姿。
情報の雨が降っている。私は傘をさし、流れ落ちる情報を見る。手を伸ばせば情報の雨に触れることもでき、足元には情報のみずたまりができる。光って美しかったりする。もっと増して川になり、海に流れる。透き通った情報がゆれ。にごった情報も交わる。私はその海を眺める。



私は裸で情報の雨を浴びないように服を着る。

2005/01/15

鳥の一年

私、とにかくひよこが嫌いで、いや、マジで嫌いで、図鑑のひよこの(にわとりのね)ページは2度と見れないようにホチキスでバチバチ止めてるくらい嫌いで、去年のスケジュール帳は購入後に気付いたひよこマークは見えないようにマジックで消して上からシールを貼って防御するくらい嫌いで、いや、だから嫌いだってばってくらい嫌いで、なので、新年の始まりは露出過多のひよこ(鳥)にうんざりで始まってしまった。



新年というと毎年決意新たに強い志が芽生えるものだが、なんといっても今年はひよこの一年である。大阪にいるなかなか会う機会の少ないとてもかわいい甥っ子(2歳半)に教えられた、何もないところから得るという吸収力は無限だということ、原点に戻れということ。振り返ってみることも時には大事なことなのね。生まれたてのアイデアをできるだけたくさん育てたいと思っている。
今年は羽ばたくぞー。



バスの中で読もうと本を2冊購入した。
オノ・ヨーコの「ただの私」とジャケ買い?白い表紙がオリーブで連載されていただけある佐藤雅彦の「プチ哲学」である。悲しいことはすぐに忘れてしまうなんとも都合の良い性格なのであんなに騒いでいたのにオノヨーコ展のことは忘却していたが、年賀状やアンケートなどでオノヨーコ展の話をとうとう聞かされてしまい、オノヨーコに手が伸びた。これはヨーコの自伝と男女が逆になった面白いフェミニズムの読み物、そして対談が載っているのだが、自分を信じて生きている人は素晴らしいということ、そしてアバンギャルドへの興味は増すばかりである。(今度は正式に、オノヨーコ展に行かれた方々の感想どしどしお待ちしてます。)読書の秋意向久しぶりにすっかり本の虫になっている私だが、読み出すと止まらない。プチ哲学。後から知ったのだが、オリーブで連載されていたらしいが、かわいい絵となんとも少女にも優しい文章で本当にすぐ読んでしまった。
考えすぎる人にはお薦めである。今日は大江健三郎を読みながら就寝しようと思っている。今年も読むぞー。